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オリンピックという『最高のわがまま頂上決戦』の幕開けを見て、私は自分のために生きたいと誓った

コミカル・ストーリーコンサルタントの染宮愛子です。

 

何ヶ月ぶりかにTVをつけ、リオデジャネイロオリンピックの開会式を見ました。見たというかBGM的に流したというか。実はオリンピックが今日からだって知ったのも昨日ってぐらいリオオリンピックには関心がなかったんですが、たまたまtwitter見てたら『開会式やってるー!』ってツイートが流れてきて、無性に見たくなったんです。

 

ホコリかぶりかけのリモコンを手に、電源ボタンを押して。ひょっとしたら引越し後初かもしれない生中継を見て。

なぜだか無性に泣きたくなりました。身体が感動で涙を流したがった。タイミングを見計らうかのようにマンションの排水溝掃除のお兄さんが来て涙引っ込んだんですが(笑)

 

選手たち、ボランティアたち、ダンサーたち、観客……そこにあるまっすぐさが、心地よく胸を射抜いていった。始まる前から治安ガーとか盗難ガーとか色々言われてたけど、そういう野暮なことは一旦置いておいて、そこにはまっすぐさが、ただただまっすぐさがあった。

 

4年に一度の祭典。私たちはオリンピックをそう呼ぶ。

 

けれど、テレビの向こう、地球の反対側にあったのは『一生に一度』のシーン。「オリンピックは4年に一度」なんて神様めいた客観的視点じゃなく、『この日を迎えられた』『人生に刻まれる日だ』というエネルギーに満ち溢れていた。

 

オリンピックは、というかスポーツは、『その一瞬』に全てをかける。自分の全てを燃やし尽くして、運や魔物さえも味方につけて、炸裂するかのように戦う。

そのバイタリティは、圧倒的な『自分を信じる気持ち』と『その場を楽しむ気持ち』に支えられている。個人的な予想だけど、試合中は一種のオーガズムに近いものを感じてるんじゃないか。燃え滾る冷静さと、全身をめぐる情熱と、『私の最高の一瞬』を迎えられる喜びに染め上げられた選手は、その瞬間、自我すら超えていくんじゃないかと思う。

 

そんな彼らを見ていて、私の中で言葉が炸裂した。

 

『彼らのように、自分がもっとも輝ける瞬間のために生きたい』

 

オリンピックは国別対抗戦でメダルを争う。だからどうしてもお国のためにというか、国にメダルを捧げますみたいな論調になる。メダル取った人も『国の代表として誇りに思います』みたいなことをいったりする。

 

でも
彼らって本当に『国のために』やってるんだろうか?

国という、『見えない存在』のためにやってるんだろうか?

 

きっと違うと思うんだ。

人は他人のためには生きられない。他人の期待のためには生きられない。ましてやオリンピックという世界一を決める戦いに、他人のため、国のためなんて大義名分は雑念以外の何ものでもないだろうと思う。

 

『国のために勝利をもたらします』と『私は勝ちたい』

どっちが力が出るか。

私なら後者だ。応援してくれる人のためにと言いはじめたら、義務感でがんじがらめになる。応援してくれる人たちの力を受け、オリンピックに参加できる権利をくれた国のバックアップを感じつつ、『それらを受け取った自分』が『勝ちたい』と願う。

オリンピックの戦いは、人間対人間でありながら、どこか野生動物じみている部分がある。全てを背負った上で『自分』という存在にとことん意識を集中し、理性すら吹っ飛ばして挑む。

 

彼らが見せる『勝ちたい』は、あらゆる色を内包した白。あらゆる物を背負った果てに、磨きぬかれた『勝ちたい』がある。その人にしか持てない、最強の『勝ちたい』がある。その『勝ちたい』を抱ける場に立っていられる幸せ。戦える幸せ。自分の全てを燃やしつくせる幸せ――選手だけでなく、ボランティアもダンサーもスタッフも、おそらくは観客も、究極の『自分のため』を味わい、『自分のため』を炸裂させていた。

 

……そんなエネルギーを、地球の反対側のテレビから受け取って。

輝きすぎるほどに輝く『自分のため』を見て。

私も、それを感じたいと思ったんですね。

 

私自身、心のどこかで『あの人のため』が強くあった。あの人のために我慢しようとか、あの人のためにがんばろうとか。それ自体は決して悪いもんじゃないと思う。

 

ただ

『あの人のため』を、前面に置いたり、表面に飾るのは、卑怯だなと思った。逃げだと思った。それは、自分を諦めた人間の、負け惜しみにもなりえるのだと。

『あの人のため』は、逃げ口にもなるから。

「あの人のためにがんばったんですけどね……」とか、言えちゃうから。

 

でもオリンピック選手はそういうこと言わない。負けたら『自分の力不足でした』って言う。なぜなら彼らは自分のために戦っているから。『あの国で生まれた自分のため』に、『あのコーチに育てられた自分のため』に、『両親から仲間から応援されている自分のため』に戦うから。でなければ、あんなにも孤独で、あんなにも自分への信頼が試される場に立とうとは思わないだろう。

これはただの私の予想。でも、私には彼らがそう見えた。

極限の『自分のため』が咲く場所――それがオリンピック。

 

その姿に、生き様に。試合でもなんでもない開会式、選手たちから、会場から漂う力にすっかり揺さぶられた私は、根底にある『あの人のため』を進化させたくてたまらなくなっている。あの人のためではなく、それを踏まえた自分自身のために生きたいと。

 

人類最強を決める『自分のため』の戦いが渦巻く17日間、その間に、私はどんな『自分のため』の戦いができるだろう。

そこにはきっと、研ぎ澄まされた楽しさが待っていると思うのだ。